6講.参考資料1
  
レジュメ (下)
史料1
門限は厳重ではあったが、一面には遅刻する者をかばうために、暮六【くれむつ】時の拍子木を打ってまわる仲間は、なるべくゆっくりと邸内をまわって、それから門番に報じて門をしめさせた。もう六ツの拍子木が聞えるのに、まだ某【なにがし】は帰らぬというと同僚の者は心配して、拍子木打ちの仲間に聊か銭をやって、一層ゆるゆると廻らせた。あるいは、拍子木がもう門へ行きつくという際に仲間を抱き留めて、同僚の駆込むのを待つというような事もやった。門限に全く遅れたとなると、国許へ追い帰され、長い間謹慎を申附けられるのである
(内藤鳴雪「勤番者」柴田宵曲編『幕末の武家』青蛙房、一九六五年)。

史料2
その頃盛んな山王・神田の祭などは、人が雑沓するから、もし事変に出合って藩の名が出るといかぬというので、特に外出を禁ぜられていた。そこで、この祭を見ようと思う時には、病人があるから医者へ行くと称して、門を出たものである。藩の医者は、邸外に住んでいる方が、町家の者を診ることも出来て収入が多いので、よく外に住んだ。この事は藩でも許していた。それで医者へ行くということを、外出の口実にすることが出来た。だから祭の日などは、俄に邸内に病人が殖えた。芝居に行く時には朝が早いから、皆病人になって行った。この事は黙許されていた。

史料3
勤番者は大概、一つ小屋に一緒に居た。今の寄宿舎といった風になっていた。勤めも忙しくはないので皆無聊でいたが、さればとて酒を飲んで騒ぐことも出来ぬので、碁、将棋、または貸本を読んで暮した。貸本屋は高い荷を脊負って歩いたもので、屋敷でもその出入を許した。古戦記の外、小説は八犬伝、水滸伝、それから御家騒動は版にすることは禁ぜられていたので写し本で貸した。種々な人情本や三馬【さんば】等の洒落本もあり、春画も持って来るので、彼らはいずれも貸本屋を歓迎した。私も子供の時に親類の勤番者の所へ行って、春画を見せられたことを覚えている。
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