危機にどう対処してきたのか ◆第3回レジュメ
江戸の国防と国家改造論 明神塾レジュメ3
「江戸のリーダーと危機管理」
・第3回 江戸の国防と国家改造論
〜幕府を支えた二人のリーダー・勝海舟と小栗上野介〜
2012年6月20日 安藤優一郎
はじめに 
 ペリー来航にはじまる未曾有の国難に立ち向い、衰退する幕府を支え続けた二人のリーダーがいました。アメリカに渡り、西洋文明に触れた経験を持つ勝海舟と小栗上野介です。外国の侵略から日本を守るため、二人が抱いた国家改造論を明らかにします。
1.勝海舟の抜擢
(1)江戸っ子勝海舟誕生 文政6年(1823)、勝麟太郎生まれる/蘭学修行に励む/兵学塾を開く/嘉永6年(1853)、ペリー来航を受けて上書提出/注目された海舟
(2)幕府の開明派官僚たち 幕府内の若手官僚の抜擢/大政奉還論者大久保忠寛との出会い/安政2年(1855)、海舟登用/長崎へ/藩士で占められた伝習生/大老井伊直弼と西洋化路線の頓挫/万延元年(1860)、咸臨丸で太平洋を渡る (3)西洋化を推進する幕府 帰国後、蕃書調所頭取助に転任(左遷)/文久2年(1862)、軍艦操練所頭取に/文久3年(1863)、蕃書調所を開成所に再編/藩士を蕃書調所・開成所教授(手伝)に登用/文久2年に榎本武揚・西周・赤松則良たちをオランダ留学させる/イギリス、フランスにも留学生派遣(薩摩・長州藩なども)/留学生・欧米使節団派遣の歴史的意義
2.小栗上野介の立身出世     (史料1へ)
(1)三河譜代の名門小栗家の嫡男に生まれる 文政10年(1827)、駿河台で生まれる/儒学者安積 斎に学ぶ/砲術を学ぶ/弘化4年(1847)、西丸御書院番士となる (2)欧米社会に触れる 幕府内で通商貿易の必要性を唱える/安政6年(1859)、日米通商条約批准使節に任命される/目付として渡米/サンフランシスコからワシントンに向う/大西洋周りで帰国 (3)幕政を担う小栗 外国奉行に任命/吹き荒れる攘夷の嵐/ロシア軍艦の対馬占拠の談判に赴く/文久2年、勘定奉行に就任/軍制改革に携わる/江戸町奉行に就任
3.幕臣たちの国家改造論
(1)諸大名の国政への参画 外様大名の幕政参加運動/安政の大獄という反動/和宮降嫁と攘夷実行の約束/朝廷を介して国政進出をはかる薩摩・長州藩/熊本藩士横井小楠の共和政治論〜挙国一致論/文久2年、海舟は軍艦奉行並に/海舟、海防・外交問題に関与する立場に (2)渦巻く将軍絶対君主論 (史料2へ) 朝廷・諸藩の幕政への容喙に反発する幕府気鋭の官僚たち/小栗たち幕府実務官僚は徳川家を絶対君主(大統領)とする中央集権国家を望む/文久3年の老中小笠原長行率兵上京/小栗たちの介在/幕府に圧力を加える朝廷・諸藩を押さえ込む/クーデターの失敗/長州藩の攘夷実行と失脚/薩英戦争と四カ国(英仏米蘭)連合艦隊の下関砲撃 (3)福沢諭吉の長州征伐論 (史料3へ)  咸臨丸で渡米/帰国後、幕府外国方に翻訳者として出仕/文久2年に幕府遣欧使節団の一員として渡欧/元治元年(1864)、幕臣(旗本)に抜擢/攘夷運動への敵意/慶応2年に征長建白書提出/外国兵力の投入と国債による軍費調達/小栗と立場は同じ (4)海舟と小栗の国家改造論の相克 (史料4へ) (史料5へ) 元治元年の蛤御門の変後、軍艦奉行の海舟は西郷と対面/海舟は共和政治(雄藩連合)論を唱える(小楠の影響)〜薩摩藩と同じ立場/将軍絶対君主論の立場でフランスとの提携路線を選択した小栗/海舟の批判/横須賀造船所建設計画とフランス式軍事調練の実施
4.明治維新の混乱〜それぞれの選択
(1)大政奉還と王政復古 慶応2年(1866)、慶喜が将軍に/慶応3年(1867)の大政奉還により天皇をトップとする政体に移行/新政府内の人事争い/慶喜を排除した形での新政府樹立/徳川家の反発 (2)海舟の登場と小栗の退場 鳥羽・伏見の戦いの敗北/主戦論の実務官僚たち/慶喜、恭順姿勢を堅持/小栗の罷免/陸軍総裁となった海舟が政府との交渉にあたる (3)小栗の遺産 江戸城開城(4/11)/領地の上州権田村に入った小栗の追討令(4/22)/近藤勇斬首(4/25)/小栗斬首(閏4/6)/彰義隊壊滅(5/15)/徳川家処分公表と静岡藩誕生(5/24)/小栗が進めた西洋化路線は静岡藩で踏襲/海舟も静岡に
 おわりに
廃藩置県により、諸藩による共和政治から天皇をトップとする中央主権国家が完成
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 ※史料1  戻る
幕府が末路多事の日に当りて如何にして其費用の財源を得たりしかは、啻に今日より顧て不可思議の想を成す而己にあらず、当時に於ても亦幕吏自らが怪訝したる所なりき、而して其経営を勉め敢て乏を告ぐること無からしめたるは、実に小栗一人の力なりけり。 将軍家両度の上洛、これに続きて、東には、筑波の騒乱あり、西には長州征伐あり其余文武の政務に付き、幕府が臨時政費の支出を要したるは莫大なりけるに、小栗は或は財源を諸税に求め、或は厳に冗費を省きて之に宛て、未だ曾て財政困難の故を以て、必要なる施行を躊躇せしむる事なかりけり、然れども冗費を省き冗費を汰するの故を以て、小栗は俗士輩の怨府とはなれりけり。 幕府士人の銃隊は堕弱にして実用に堪へざるを看破し、小栗は旗本等に課するに、其領地の高に応じて賦兵を以てし、併せて其費用を出さしめ、是を以て数大隊の歩兵を組織し、夙に徴兵制度の基礎を建てたり。 小栗は又仏国より教師を聘して、右の賦兵を訓練せしめ、併せて陸軍学校を設けて将校を養成せしめたり、是れ所謂幕府の伝習兵にして、幕府の末路、稍々健闘の誉を博したるは、即ち此兵隊なりけり(福地源一郎『懐往事談』『幕末維新史料叢書』八、人物往来社、一九六八年)。   戻る
※史料2  戻る
此日西湖間に於て條約を廃し決戦の覚悟を定む云々の可否を諸有司に議せしめられしに、小栗豊後守(小栗上野介)異議を唱へ、政権を幕府に委任せらるゝハ鎌倉以来の定制なり、然るに近時は京都より種々の御差綺ひあるのみならす、諸大名よりも様々の事を申立る事となり、夫か為め已定の政務に変更を要する事あるに至れるハ、以の外なる政府の失躰なり、此上赫然権威を振ハれさらハ、終にハ諸大名に使役せらるゝにも至るへし、肥後守(京都守護職松平容保)殿大に憤激せられ、京都の御差綺ひを拒みてハ尊王の大義に悖り、外夷の屈辱を受けてハ国威を墜すへししか大義に悖り、国威を墜さハ幕府の権威何れの所にか振ふを得へきと申され、公も公共の天理に依らすして只管幕府の権威をのみ振ハんとするハ一己の私なり、故に己を忘れて議せさるへからすと申されけれんと諸有司・芙蓉の間何れも服せす、終に決議に至らさりき(日本史籍協会『続再夢記事』一、東京大学出版会、一九七四年)   戻る
※史料3  戻る
第二条 内乱御鎮圧に付き外国の力を御用相成りたき事 一、此度長州御征罰に付いては、彼方おゐても二ケ年の間窃に武備相整え、軍器軍法とも残らず西洋流にいたし、且国民必死を以て官軍へ御敵対いたし候義に付き、中々小敵には御座なく、既に井伊榊原敗走の実験もこれ有り、諸大名和流の兵幾万人これ有り候とも有名無実、迚も御用には相成らず候事に御座候。就ては上の御人数も、歩兵並に大砲隊、兼て熟練いたし居り候義には候得共、賊は必死の地を守り防戦いたし、且武器の利もこれ有り、主客の勢、唯今の処にては、恐れ乍ら一時の御成敗如何これ有るべき哉、心配仕り候義に存じ奉り候。右の次第に付き、格別の御英断を以て、外国の兵御頼相成、防長二州を一揉に御取潰し相成り候様仕りたく(「長州再征に関する建白書」『福沢諭吉全集』巻一、岩波書店、一九八○年)。   戻る
※史料4  戻る
小栗は、長州征伐を奇貨として、まづ長州を斃し、次に薩州を斃して、幕府の下に郡県制度を立てようと目論んで、仏蘭西公使レオン・ロセスの紹介で、仏国から銀六百万両と、年賦で軍艦数艘を借り受ける約束をしたが、これを知って居たものは、慶喜殿ほか閣老を始め四、五人に過ぎなかった。 長州征伐がむつかしくなったから、幕府は、おれに休戦の談判をせよと命じた。そこで、おれが江戸を立つ一日前、小栗がひそかにおれにいふには、君が今度西上するのは、必ず長州談判に関する用向だろう。もし然らば、実は我々にかやうの計画があるが、君も定めて同感だろう。ゆゑに、敢へてこの機密を話すのだといった。おれもここで争うても益がないと思ったから、たださうかといっておいて、大坂へ着いてから、閣老板倉に見えて、承れは斯々の御計画がある由だが、至極結構の事だ、しかし天下の諸侯を廃して、徳川氏が独り存するのは、これ天下に向つて、私を示すのではないか。閣下ら、もし左程の御英断があるなら、むしろ徳川氏まづ政権を返上して、天下に模範を示し、しかる上にて、郡県の一統をしては、如何、といつたところが、閣老は愕りしたヨ。 さうするうちに、慶応三年の十二月に、仏国から破談の報せが来た。後で仏蘭西公使がおれに、小栗さんほどの人物が、僅か六百万両ぐらゐの金の破談で、腰を抜かすとは、さても驚き入った事だといつたのを見ても、この時、小栗がどれほど失望したかは知れるヨ。小栗は、僅か六百万両のために徳川の天下を賭けうとしたのだ(勝海舟『氷川清話』講談社学術文庫、二○○〇年)   戻る
※史料5  戻る
幸にして話が向ふから外れて来て、金が出来なかった。小栗が真青になって、ひどく困るやうに公使に言つたから、公使は茶化して笑つたさうだよ。実に国家万年の幸といふものだ。柴田や田辺などは、その時、仏蘭西に行つて、金を借りる役さ。行きだけの旅費を貰つて行つて、帰りには借りた金を使ふという訳だつたが、話が違つて来たので、パリーの宿屋に長逗留で、払ひも出来ず、帰れもせず、困り切つたのだ。スルト、誰かの思付きで、和蘭に行つて話した所が、早速に承知して、銀行で即座に貸してくれたさうな。実にこの金で帰朝したから幸の事サ。その金は、維新後にみな己の方で返した。 小栗は、初めて大層わしをひいきにしたものだつた。然し、この借金事件から、アレも、栗本も、その一味といふものは、ひどく讎敵のように扱つた。栗本はその後来たこともない(『海舟語録』講談社学術文庫、二○○四年)   戻る

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