災害都市・江戸の危機管理 明神塾 レジュメ2
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「江戸のリーダーと危機管理」
・第2回 幕臣たちの明治維新
〜政権交代を生き抜いた幕末の下級武士たち〜
2010年5月16日 安藤優一郎
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◆はじめに |
江戸幕府の崩壊、明治政府の誕生という政権交代により、幕府に仕えていた三万人もの幕臣達はどうなったのでしょうか。歴史教科書では語られることのない、明治維新後の幕臣達の生き様を明らかにします。
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1.江戸開城後の幕臣たち |
(1)政府軍、江戸城入城
鳥羽・伏見の戦い(慶応4年(1868)1月3日〜)/賊軍・朝敵となった慶喜と幕臣/恭順方針に対する幕臣の反発/江戸城明け渡し(4月11日)をめぐる攻防/彰義隊の戦い(5月15日)
(2)静岡藩の誕生
徳川宗家を継いだ徳川亀之助(家達)、静岡藩主に(5月24日、800万石→70万石)/幕臣3万人強(旗本6000人・御家人26000人ほど)が迫られた3つの選択@朝臣A帰農B無禄移住/朝臣を選んだ幕臣たち
(3)士族の商法の先駆け
古道具屋への転業と家宝の大暴落/汁粉屋・団子屋など飲食業への転業と大赤字/貸金業で家産を失う/農民になった旗本
(4)無禄移住の現実(資料1)
凄惨な静岡への引越し/無禄同然の扶持米/食料確保に駆けずり回る/餓死者の続出と家族離散/会津藩の挙藩流罪
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2.江戸の解体と東京の混乱 |
(1)近代都市東京の建設
江戸城の城門の撤去/大名屋敷の没収/官庁街の建設/江戸から東京への改称(7月17日)/東京府の設置(同日)/明治天皇、東京に入る(10月13日)
(2)士族授産の失敗
幕末以来の人口激減/参勤交代制の有名無実化/荒れ野原の東京/桑茶政策の失敗/牧場が広がる/養兎の行方
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3.明治を支えた幕臣たち |
(1)静岡藩士の明治政府入り
静岡藩の先進性/静岡学問所と沼津兵学校/諸藩からの留学生殺到/静岡藩士の引抜き
(2)言論界への進出
東京日日新聞創立者福地源一郎、江湖新聞創刊/幕府寄りの論調で投獄される/朝野新聞社長成島柳北による政府批判/誹謗律・新聞紙条例の発布/明治政府の弾圧
(3)経済界を支える(資料2)
徳川慶喜の家臣渋沢栄一、フランスから帰国/静岡藩の財政を立て直す/渋沢への出仕命令/政府部内の実態/近代化政策に邁進する/前島密の引抜き/政府部内の反発と下野/日本資本主義の父に/幕臣(益田孝)が作った三井物産
(4)静岡に残った人々
牧の原台地開墾と茶畑/士族授産(製茶・製靴・牧畜)の主導/江原素六(麻布学園創立者)は県政・国政に進出
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4.幕臣たちの大同団結 |
(1)東京開市三百年祭の挙行
明治22年(1889)、江戸会の結成/大日本帝国憲法発布、東京市誕生の年/8月26日(旧歴8月1日)に東京開市三百年祭開催の機運〜天正18年(1590)に家康が江戸城に入って300年目/300年祭の委員長は榎本武揚/宮内省からも下賜金/祭典当日の盛り上がり/東京万歳、徳川万歳
(2)江戸ブームの到来(資料3)
同方会など幕臣の会が次々と誕生/『江戸会誌』『旧幕府』などの発刊/消えつつある江戸を記録に残そうという幕臣たちの危機感/明治維新への反発〜江戸は封建・保守・後進的。明治以降は先進・開明的な文明社会として叙述
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おわりに |
徳川家側からの明治維新史の捉えなおし
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※史料1 |
非番の折りには、城内から一里半ほどの城が腰の海辺(今鉄道の通っている処)へ行って、青海苔を採って来て干して食う。或いは藤枝の山手の太閤平、盃松などの谷へ行っては蕨や大薇などを摘んでは喰う。いやもう伯夷叔斎と嶋の俊寛を合併した景色でしたね(中略)或る人の如きは真にその三食の資に尽きて、家内七人枕を並べて飢えて死に、また或る人は五日とか七日とか一粒の食をも得んで苦しんでいるのを、村の者が怪しんで、初めてその餓死にのぞんだと知り、或る者は逸早く麦粥を煮て食わせたところが、哀れむべし、その男、ひもじいままに一度に数椀を尽くした、と看るうちに忽ち非常の苦悶を発して、たちまちに息絶えたと聞きました(塚原渋柿「明治元年」『幕末の武家』青蛙房、一九六五年)。
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※史料2 |
明治二年十一月、私は明治新政府へ召し出された。
ちょうど、その頃、私は仏蘭西から帰ってきたばかりだった。というのは慶応三年に、巴里に万国博覧会が開かれて、日本からは徳川慶喜公の弟君に当たる松平民部大輔様を使節として御差遣になった。私はその随員の一人としてその年正月七日に出発し、フランス、イタリア、瑞西、和蘭などを巡遊中、故国の政変を聞いて、直ぐに引き返し横浜に着いたのは五月十七日だった。
静岡に、御謹慎中の慶喜公に賜して万感こもごも至る有様。将軍家として天下に号令したものが、今日は一庶民としてみるからお気の毒な状態にある。
「いっそ坊主にでもなろうか」
私はあまりの味気なさに、志を当世に絶ち、仏門にはいろうともした(中略)
そのうちに、新政府から私を召し出すことになった。私はそのとき、太政官から石高に応じて配分した不換紙幣(金札)が五十万円もあり、だんだん使い果たして二十八万石ほどある。その金を一切任せて貰って、銀行とも、商会社ともつかぬ中途半端なものをこしらえた。これは私が外遊中、朧気ながら視察してきた要領に基づいたもので、公債を発行して、民間の金を集めたうえ、とも角も逐次眼鼻がつくようになった。ところへ、新政府からの御召であった。
「私は徳川家のため折角やりかけた仕事があるのだから、あなたからよろしくお断わり願います」
静岡県令(権大参事の誤り)大久保一翁にこう頼んだ。「それは困る」「どうしてでありますか」「実は、何かにつけて新政府は、いまだ徳川家に逆意があるように邪推しているような次第で、足下を御召になったにも拘わらず出仕をお断わりする事になると、藩が邪魔したように思われる。そこで迷惑だろうが、ひとまず出仕したうえ、やめるとも辞するとも、それは足下の随意に任せるよう、とに角お受けはして貰わねばならない」
衷情を打ち明けられたので、やむをえず、私は新政府へ出仕することになった
しかし、もともと仕える意思のないところへ、租税司の長官租税正という役向きを仰
かったのだから、全く見当がつかない。
そこで、私は、その頃大蔵大輔であった大隈重信侯の築地の屋敷を訪問して、
「実は、大蔵省出仕を仰せ付かりましたが、自分には租税正などという大役はお引けできません。私は百姓の子ですから租税を納めたことはあるが、租税を徴収した経験はございませぬ、どうかお許し願いたい」こういうと、侯は突如、
「君は、カミを知っているか」
なんのことか私には判らなかった。
「カミと申しますと・・・」
「高天原に止ります神々の神である」
「それなら神主から聞いております」
「そうだろう、われわれは今まさにそれである。高天原に、八百万の神々が集うて、新しい政治の制度を創り出そうとしている今日の政体は、大宝令に則っているので、大蔵省とか民部省とか妙な名前がついているが、ばかばかしいことである。しかし、名前などはどうでもよろしい。実質を備えるようにせねばいかん。君は、租税のことを判らぬというが、大蔵卿をはじめ、大蔵省の大官諸公が租税のことは、わかっているとでも思うのか・・・もし君がそう考えているなら、とるに足らぬ愚者じゃ。すなわち事務のわからぬのは誰も同様だ。それは辞職の理由にはならぬ。のみならず君は、百姓から身を起こして士分に列したと聞いているが、その動機は、四民平等の階級打破の考えからであったそうではないか、侍が横暴を極めて、百姓町人を虐待することにたいして奮然蹶起したとかいうのではないか。それなら、われわれとても同意見じゃ。われわれには現在、封建時代の階級を打破して、広く在野の遺賢を世に出そうとしているのである。だから、君としては、むしろ進んで新政府建設のために努力すべき筋合ではないか。辞職の理由などは成立せぬよ」
侯の雄弁で滔々と説得されたので、私も返答に窮して、とうとう大蔵省へ出仕することになってしまった。
しかし、その頃の大蔵省の事務というものは、全く混沌たるもので、すべてが新奇なやりはじめ、すべてはじめからの創造というわけだった。(『史話明治初年』新人物往来社、一九七○年)
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※史料3 |
私が戦後間もないころに、国立国会図書館に新設された憲政資料室の主任となった時のことである。これから、明治憲政に関する史料収集の仕事を始めるに当って、何かとお世話にもなろうというので、衆参両院の議長にあいさつにまわった。そのときの参議院議長は松平恒雄氏であった。私が議長室に入って、しかじかの仕事を始めますからよろしく願いますというと、松平議長は、無愛想げに「それは結構なことであるが、歴史を書くのなら公平にやってもらいたい」という意味のことをもらされた。私はそのとき、はっとしたことを覚えている。
松平議長は旧会津藩主松平容保の子である。まさか、私が薩長派の子孫であると意識されたわけではあるまいが、とにかく国会図書館で、公的にそういう仕事を始めるということを耳にすると、そういう言葉がつい口にでてしまったのであろう。
もう、かつての明治憲法が廃止された後の新国会においても、会津藩主の血をうけた議長には、なお薩長維新史に対する反感が消えていなかったのである(大久保利謙『佐幕派論議』吉川弘文館、一九八六年)。
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